記事一覧

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『本能寺の変』織田信長と明智光秀

本能寺の変



本能寺の変(ほんのうじのへん)は、1582年6月21日、明智光秀が謀反を起こして京都の本能寺に宿泊していた主君織田信長を襲撃した事件。








1582年【甲州征伐】甲斐武田氏滅亡



1582年5月15日、駿河国加増の礼と甲州征伐の戦勝祝いのため、徳川家康(穴山梅雪も同行)が安土城を訪れた。そこで織田信長は明智光秀に接待役を命じる。

明智光秀は15日から17日にわたって徳川家康を手厚くもてなしたが明智光秀の徳川家康に対する接待内容に不満を覚えた織田信長は小姓の森成利(蘭丸)に命じて光秀の頭をはたかせた

徳川家康の接待が続く中、織田信長は備中高松城攻めを行っている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。織田信長は明智光秀の接待役の任を解き、羽柴秀吉への援軍に向かうよう命じた。



『敵は本能寺にあり』



5月29日、織田信長自身も中国遠征の出兵準備のために上洛し、本能寺に逗留していた。

6月21日明智軍は早朝に羽柴秀吉への援軍に出陣するが、その途上の陣で明智光秀は重臣達に織田信長討伐の意を告げたといわれる。軍勢(雑兵)には「森蘭丸から使いがあり、織田信長が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ」として京都へ向かったという。

雑兵は織田信長討伐という目的を最後まで知らされておらず、敵が何者か知らない。この状況から

『敵は本能寺にあり』

という『本能寺の変』で有名な明智光秀のセリフが産まれた。



『本能寺の変』



6月21日、明智軍は織田信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して包囲した。明智光秀軍13,000人に対し、織田信長は近習の100人足らずに守られていた。

馬の嘶きや物音に目覚めた信長が森成利(蘭丸)にたずねて様子をうかがわせた。小姓衆は当初使用人たちの喧嘩と思っていたという。

森成利(蘭丸)は見聞の結果、「本能寺はすでに敵勢に包囲されており、多くの旗が見えた。旗に描かれているのは桔梗の紋である」と報告、信長は謀反の首謀者が明智光秀であったことを悟った。

信長は「是非に及ばず」(しかたのないことだ)と語り、100人ほどの手勢しか率いていなかったが弓を手に応戦した。弓は弦が切れたため、次には槍を手に取り敵を突き伏せた。

しかし13,000人という圧倒的多数の明智軍には敵わず、明智光秀配下によって槍で傷を負い。近習の森 成利(享年18)は2人の弟と共に討ち取られた。

居間に戻った信長は自ら本能寺に火を放ち、燃え盛る炎の中で、自害して果てた。織田信長(享年49)

織田信長の嫡男で織田家当主織田信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、やはり自害した。
(諸説あり)



『本能寺の変の謎』



本能寺で織田信長の死体は発見できなかった。当時の本能寺は織田勢の補給基地的に使われていたため、火薬が備蓄されており、織田信長の遺体が爆散してしまったためと考えられる。

そのため織田信長の生存説が京洛に流れ、緊急に明智光秀と対立することとなった羽柴秀吉(中国大返し)はこの噂を利用し、味方を増やそうとした。

織田信長・信忠の死によって織田政権は崩壊した。この事件は戦国乱世が終息に向う契機となったので、『本能寺の変』は戦国時代における最後の下剋上とも言われる。

明智光秀が謀反を起こした理由については、定説が存在せず、「日本史の謎」「永遠のミステリー」などと呼ばれ、様々な人々が多種多様な説を発表している。



この後の歴史は



・羽柴秀吉の『中国大返し』
・羽柴秀吉VS明智光秀の『山崎の戦い』
・明智光秀の『三日天下』
・織田信長の後継者を決めた『清洲会議』
と続き、羽柴秀吉と柴田勝家で激しい権力争いをする。



FXで副収入は本当に可能か!





関連記事
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

最新記事

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。