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徳川家康『恐怖で脱糞!』武田軍三方ヶ原の戦い

三方ヶ原の戦い(みかたがはら)



【ひとことで】
徳川家康軍が武田信玄軍に散々に打ちのめされ負けた戦い

1573年1月25日に遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった、武田信玄軍2万7,000人と徳川家康、織田信長からの連合軍1万1,000人との間で行われた戦い。

武田信玄の西上作戦の過程で行われた戦いで徳川家康が大敗したことで有名







【もっと詳しく】
武田信玄・念願の西上



北条氏康の死をきっかけに北条氏は武田氏と和睦して甲相同盟が復活し、後顧の憂いを絶った武田信玄は、1572年に念願の西上作戦を開始する。



固い守りの浜松城から
徳川家康は誘いだされた



当初、徳川家康と佐久間信盛(同盟国・織田信長からの援軍)は、武田軍の次の狙いは本城・浜松城であると考え、籠城戦に備えていたが武田軍は浜松城を素通りして三方ヶ原台地を通過しようとしていた。

これを知った徳川家康は『無視かよ!』と激怒し、一部家臣の反対を押し切って、籠城策を三方ヶ原から祝田の坂を下る武田軍を背後から襲う積極攻撃策に変更し、浜松城から追撃に出た。

同日夕刻には、三方ヶ原台地に到着するが、武田軍は魚鱗の陣を布いて待ち構えており、徳川軍は慌てて鶴翼の陣をとり『三方ヶ原の戦い』が始まった。







大敗した徳川家康



武田軍に対し兵力・戦術面ともに劣る徳川軍に勝ち目はなく、徳川家康はわずか2時間の戦闘で甚大な被害を受けて敗走する。


【しかみ像】

三方ヶ原の戦いで武田軍の死傷者200人に対し、徳川軍は死傷者2,000人のほか、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、本多忠真といった家臣、また織田軍の平手汎秀といった武将を失った。

野戦に持ち込んだことは全て武田信玄の狙い通りに進んだと言えるが、戦闘開始時刻が遅かったことや本多忠勝などが、武田軍相手に奮戦したこともあり、徳川家康を討ち取ることはできなかった。

徳川軍の一方的な敗北の中、徳川家康も討ち死に寸前まで追い詰められ、夏目吉信や鈴木久三郎を身代わりにして、僅かな供回りのみで浜松城へ逃げ帰った。

この敗走は、後の伊賀越え(本能寺の変直後に混乱した大阪から脱した。このとき服部半蔵が徳川家康を助けたと言われている。途中で別のルートを行った穴山梅雪は一揆で討たれた。)と並んで徳川家康人生最大の危機と言われている。

浜松城へ到着した家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる空城計を行う。そして絵師を呼んで『しかみ像』を描かせると、湯漬けを食べてそのままいびきを掻いて眠り込んだと言われる。(恐怖で脱糞したという説もある)



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武田軍のその後



浜松城まで追撃してきた武田軍山県昌景隊は、空城の計によって警戒心を煽られ城内に突入することを躊躇し、そのまま引き上げた。

この後、武田軍は三方ヶ原からさらに西へ進撃し野田城を攻略したころ、武田信玄の病状が悪化したので西上作戦を切り上げた。武田信玄は甲斐に戻る途中、病死した。

(諸説あり)
出典・Wikipedia





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