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真田丸・『穴山梅雪』(ばいせつ)ってどんな人?

NHK大河ドラマ『真田丸』で登場する穴山梅雪とはどんな人だったのか


【穴山梅雪】(あなやまばいせつ)
《穴山信君(あなやまのぶただ)ともいう》
・1541~1582





武田の血統



武田信玄の家臣で、穴山梅雪の母は武田信玄の姉、穴山梅雪の妻は武田信玄の娘で武田家の親族筆頭だった。







武田勝頼との衝突



武田信玄が家督を武田勝頼に譲る前に死んでしまい絶対的権力者が定まらず、親族筆頭の穴山梅雪と武田信玄の嫡男、武田勝頼とは対立が絶えなかった。

織田・徳川連合軍対武田家の設楽原・長篠の戦いでは敗戦濃厚となった際に穴山梅雪は隊を整え、いち早く戦線を離脱している。これに怒った高坂昌信が武田勝頼に穴山梅雪を切腹させるべきだと意見したが、親族衆の筆頭である穴山梅雪を処断することで家中が分裂することを恐れ、武田勝頼はその意見を退けた。

1581年12月(本能寺の変の半年前)、穴山梅雪は織田信長に内通し始める。翌年2月(甲州征伐、本能寺の変の年)武田勝頼は、娘を穴山梅雪の嫡男に嫁がせる約束を破り武田信豊(武田信玄の弟、武田信繁の子)の子に嫁がせることにしたのに激怒して、徳川家康に降った。

【同世代の武将年齢比較】
武田信玄(1521~1573)➕20
織田信長(1534~1582)➕13
穴山梅雪(1541~1582)
徳川家康(1543~1616)➖2
武田勝頼(1546~1582)➖5
真田昌幸(1547~1611)➖6



穴山梅雪の裏切り



穴山梅雪の領地、駿河江尻領は甲州からみて駿河口と呼ばれた。甲州の領地は周りを厚い山々に囲まれ他からの侵略は困難な領地といえる。そのなかで数少ない甲州までの道、駿河と甲府を繋ぐ甲州街道を穴山梅雪は任されていた。

歴史にもしもを語ればキリがないが穴山梅雪が駿河口を開けなければ織田信長の甲州征伐も困窮し、同年に起こった『本能寺の変』も起きなかったと思う。そうなると日本の歴史がガラッと変わったのではないかと考えてしまう。

親族筆頭だった穴山梅雪の謀叛により武田家の結束力は無くなり、一枚岩だった武田信玄の最強騎馬軍団はバラバラになっていく。

1582年(本能寺の変の年)2月25日、織田信忠の甲州征伐に際して、穴山梅雪は2月25日に甲府にいた人質を逃亡させ、甲斐一国の穴山梅雪の拝領と武田氏の名跡継承を条件に、2月末に徳川家康の誘いに乗り、織田信長に内応した。 その結果、穴山梅雪は織田政権より甲斐河内領と駿河江尻領を安堵された織田氏の従属国衆となり、徳川家康の与力として位置づけられた







穴山梅雪の本能寺の変



同年5月には織田信長への御礼言上のため家康に随行して上洛し、近江国安土において信長に謁見する。堺を遊覧した翌日の6月2日に京都へ向かう途上で明智光秀の謀反と織田信長の死(本能寺の変)を知る。

徳川家康と共に関西から脱しようとするが、その途上で一揆の襲撃を受け穴山梅雪は死亡した。
穴山梅雪死亡には一揆の襲撃ではなく明智光秀が放った徳川家康への刺客説、徳川家康の陰謀説など諸説ある、いずれにしても徳川家康と穴山梅雪は『本能寺の変』の後、別々に東へ逃れた。

武田家を裏切った、穴山梅雪が死んだのは武田勝頼が自害してから3ヶ月後だった。
1582年は武田勝頼、織田信長が死んだ年。

穴山梅雪の墓(討たれた京都、故郷の山梨、領地の静岡、3箇所ある)は静岡県静岡市清水区興津井ノ上の霊泉寺にあり墓からは駿府から甲府へ繋がる甲州街道がよく見える。









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